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マレーシア首都事情 クアラルンプールの現状、機能移転や昔の首都について

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マレーシアの首都はクアラルンプール。
近年著しい経済成長を遂げているマレーシアを代表する一大都市です。
しかし近年、クアラルンプールに機能が一極集中しているため、様々な弊害が生じています。

例えば渋滞。
クアラルンプールではビジネスアワー前後、かなり大規模な渋滞に見舞われます。
クアラルンプールにビジネス街が集中しているため、車では近距離の移動でも1時間以上かかることも。
そんな問題を解消するために、クアラルンプールから一部首都機能の移転を行っています。

ただマレーシア、一貫してクアラルンプールが首都であったわけではありません。
クアラルンプールが首都となったのはここ百数十年の話。
それ以前はイギリス植民地時代や、マラッカ王国時代等、様々な都市が首都としての役割を担っていました。
ここではそんなマレーシアの首都事情についてまとめます。

もしよろしければ、以下のマレーシア関連の記事も併せてご覧ください。

もくじ

マラッカ王国時代の首都はマラッカ

オランダ教会/マラッカ

マレー半島界隈の歴史は様々な変遷を経ています。
ただマレーシアの単位で考えた時には、一番最初に名前が出てくるのはマラッカ王国でしょうか。

1402年に成立し、マレー半島に栄華を築いたこの王国。
首都は名前の通りマラッカに築かれていました。
こういった歴史事情から、マレーシアの古都といえばまずマラッカを指すことは多いです。
2008年には、マレーシア初の世界文化遺産として、ユネスコに登録された、歴史ある街並みが特徴です。

しかし1511年、ポルトガルによってマラッカは占領されます。
以後、ポルトガル植民地としてマラッカの歴史は続いていきます。

ポルトガル植民地⇒オランダ植民地に、マラッカの衰退

セントポール教会/マラッカ

1511年によるポルトガル占領を経て、ポルトガル植民地自体が始まります。
マラッカには比較的、この時代の建物は多く残されています。
観光名所として有名なサンチャゴ砦やキリスト教会は、この時代の建物です。

1641年にはオランダによってマラッカが占領され、オランダ植民地時代が始まります。
ただオランダ植民地の中心部はバタヴィア(現在のインドネシア首都ジャカルタ)でした。
そのため、マラッカは一地方港として、衰退の一歩をたどることとなります。

イギリス植民地支配によりペナン、シンガポールが発展

そしてマレー半島はオランダ植民地から徐々に、イギリスの影響が強くなります。
まず1786年には、イギリスによりペナンが占領され、この地域の重要拠点として発展を遂げます。
1819年にはジョホール王国によりシンガポールが割譲。著しい発展を遂げます。
1824年には英蘭条約により、続いてマラッカがイギリス支配下になりました。

これら三拠点がイギリス植民地下になったことに伴い、イギリスの影響力はマレー半島で徐々に増大します。

イギリス植民地の拠点として、クアラルンプールが首都へ

クアラルンプール

イギリスの影響力は巨大化し、1896年、英領マラヤが成立します。
この際に首都として制定されたのがクアラルンプールです。
最初はマレー半島の半分程度の領域で制定された英領マラヤですが、次第にイギリスの影響力巨大化を経て、現在のマレー半島全域に支配領域が広がります。
こういった中で英領マラヤの中心部として、クアラルンプールは発展を遂げました。

 

 

この後第二次世界大戦等を挟み、イギリスからの独立、マレーシア連邦の成立を経て、1965年にシンガポールが独立。
ほぼ現在の領域を確定しましたが、クアラルンプールは1896年来、首都であり続けました。

現在は首都機能移転施策により、一部首都機能がプトラジャヤへ

こういった経緯を経て、現在のクアラルンプールは成立しています。
しかしながらクアラルンプールは経済成長により、都市機能が過密化。
中心部の交通渋滞等が社会問題になります。

これを解消するために一部首都機能の移転が検討されます。
首都機能はクアラルンプールとクアラルンプール国際空港の中間地点が望ましいとされました。
こうして1990年代にプトラジャヤが移転先として選ばれ、1999年に一部首都機能が移転されています。

ですがマレーシアの首都はクアラルンプールのままです。
首相官邸等、一部の機能はプトラジャヤへ移りましたが、国会等はクアラルンプールに所在したままになります。

まとめ

以上、マレー半島の首都の歴史についてまとめてみました。
こういった事情を踏まえてマレーシアに訪れると、より観光が楽しめるのではないでしょうか。

もくじ