シンガポールの歴史1:英国植民地となる前のシンガポール

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もくじ

マラッカ海峡の交易ネットワーク

オランダ広場/マラッカ
オランダ広場/マラッカ

マレー半島は、いわゆる「マラッカ海峡」と呼ばれる、中国とインドを結ぶ航路に面しています。そのため古くから、東・東南アジアやインドの商人たちが、海上貿易を行う上での中継地点として利用していました。

中国のジャンク船(木造帆船) は、南シナ海に吹くモンスーンを利用して、絹・磁器・陶器・鉄などを、マレー半島・スマトラ島・ジャワ島などの港町へ運んでいました。そしてこれらの港町へは、インドやアラブの船が、インド洋のモンスーンを利用して、絹織物・ヴェネツィアングラス・お香・金属製品を運んでいました。

それだけではなく、ジャワ島からは魚・果物・米を、インドネシア諸島東部のモルッカ島からは胡椒・香辛料を、プラウ船(高速のヨット)の船団が運んでいました。

この地で流通するのは交易品だけではありません。文化・言語・宗教・技術の行きかう、巨大な交流ネットワークが構築されていたのです。

やがてこれらの港は、海に面した諸国の核となりました。7世紀後半には、スマトラ島東部のパレンパンに首都を置いた海洋大国・シュリーヴィジャヤ王国が、マレー半島・ジャワ島・スマトラ島の大部分を支配するようになりました。この時点ではシンガポールには、シュリーヴィジャヤ王国の小港があったものと考えられています。

テマセク・シンガプーラ

マーライオン/マリーナベイ
マーライオン/マリーナベイ

シンガポールの初期の歴史は、伝説的な記述が多く見られます。ですが2世紀の年代記には、シンガポールに所在していた可能性のある町や都市が言及されています。

この地域に関する最も古い記録は、1349年に、中国の旅人であるWang Dayuan(王大元)によって残されました。それによれば、シンガポール島は「Tan-ma-hsi(テマセク)」と呼ばれ、そこでは数百隻の海賊が、通りすがりの船を襲っていたと記されています。また、マレー語で、「Bukit Larangan(禁断の丘)」と呼ばれる段々畑のような丘に、マレー人や中国人の集落があって、古代の王が埋葬されていたとも記されています。

14世紀のジャワ島の年代記、「Nagarakertagama」にも、シンガポール島に「テマセク」と呼ばれる集落があったことが記されています。

17世紀のマレー年代記「Sejarah Melayu」によれば、1299年にパレンパンの支配者Sri Tri Buanaが、シンガポール島に大規模な貿易都市を築いた事が記されています。Sri Tri Buanaは、ライオンと思われる奇妙な動物を目撃した事から、その都市を「シンガプーラ(Singapura、ライオンシティ)」と名付けました。しかし14世紀半ばには、南にジャワ島のマジャパヒト王国、北にタイのアユタヤ王国が進出しており、シンガプーラを属国としたこともありました。

ポルトガルの年代記によれば、1388年頃、マジャパヒト王国から逃れるために、パレンパンからParameswara王が亡命してきました。この王は統治者を暗殺し、シンガプーラを掌握します。しかし数年後には、マジャパヒト軍やタイ軍に追い出され、Parameswara王は北上し、マラッカ王国を建国します。

1409年、Parameswara王はイスラム教に改宗。マラッカはイスラム王国として、マレー半島の大部分と、スマトラ島の東部、そしてその間にあるシンガプーラ島等の島々を支配するようになりました。シンガプーラにいるマラッカの高官は、戦闘船を王国へ配給していました。

マラッカは、15世紀にはこの地域の主要な港湾都市となっただけではなく、東南アジアにイスラム教を広める中心地ともなっていました。

ジョホール王国時代

スナイ国際空港/ジョホール
スナイ国際空港/ジョホール

1511年、ポルトガルによってマラッカが占領されます。マラッカに君臨していたスルタン(イスラム国王)は、マレー半島南部のジョホールに逃れ、新たに「ジョホール王国」を設立します。シンガプーラはそのジョホール王国の一部となり、16世紀後半には、その高官の拠点となりました。

しかし、1613年にポルトガル人がシンガポール川の河口にあった交易拠点を焼き払った事により、シンガポールは歴史の表舞台から姿を消す事になります。

その後2世紀の間、ジョホール王国の栄枯盛衰に伴い、シンガプーラは放棄され、忘れ去られる事となりました。。1722年、ジョホール国王にSulaiman Badrul Alam Shahが就く事となります。新しい王はシンガポールの南、現在のスマトラ島にあるリアウを中心に、中継貿易を行っていました。

リアウでは、胡椒となめし用の植物であるガンビエの大規模な栽培がおこなわれていました。ガンビエを精製する際に出る廃棄物を、土壌の栄養分をすぐに失ってしまう胡椒の肥料として使う事で、効率の良い栽培を行っていたのです。1784年には、シンガポールの東南にあるビンタン島のガンビエ農園で働くために、中国南部から1万人もの労働者が連れてこられたとされています。19世紀初頭には、ジャワやシャム等でガンビエの需要が高まり、リアウ島からシンガポール島まで栽培が広がる事となります。

18世紀後半のジョホール王国は、マラッカ王国と比べてやや縮小したものの、マレー半島南部やスマトラ島、これらに隣接するシンガポール等の島々を支配地域としていました。しかし王国は、マレー半島とシンガポールを統治するマレー人派と、リアウ諸島とスマトラ島を統治するブギス人派に分裂し、弱体化していました。

1818年、オランダがブギス人派と条約を結び、リアウに軍隊を駐屯することとなります。そのため、マレー人派の高官はリアウから離れ、シンガポールへ向かいました。

シンガポール側沿いに作られた集落には、マレー人派のorang laut (マレー語で海のジプシー)が数百人規模で済んでいました。彼らは、漁業、果実栽培、貿易、そして時には海賊行為をする事で、生活していました。当時、シンガポールとリアウ諸島を結ぶ海峡には、多数の海賊船が出没していました。

また、島内には数百人の先住民が川や小川に沿って集落を作り、漁やジャングルの作物を採って生活していました。また、リアウ州から連れてこられた中国人30人余りが、シンガポール島でガンビアや胡椒の清算を始めていました。

植民地時代の黎明期にシンガポール島に住んでいたのは、全部で1000人程であったと想定されます。

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