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シンガポールの歴史2:トーマス・ラッフルズによるシンガポール入植

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もくじ

英蘭の競争

ペナン市庁舎/ペナン島
ペナン市庁舎/ペナン島

17世紀初頭には、オランダとイギリスが東インド諸島で交易を行っていました。しかし、イギリスは早期にこの地域での交易を断念し、インドに注力することとなります。

オランダは、1641年にマラッカを占領。ポルトガルに代わり、マレー諸島の支配者となります。ジャワ島のバタビア(現在のジャカルタ)に首都を置き、香辛料貿易を独占しようとします。しかしオランダの統治はうまくいかず、密輸や海賊行為がはびこることとなり、1795年にはこの海域での事業が赤字となってしまいます。

一方イギリスは18世紀後半、インドを拠点に民間の商人や東インド会社を通じて、中国との交易を拡大します。イギリス東インド会社は、オランダからジャワ島を追われ、1684年からスマトラ島西岸のベンクーレンに小さな拠点を置きます。そしてこの地を、胡椒の貿易の拠点としました。

イギリス東インド会社は、インドのカルカッタと、中国の広州との中間地点に拠点を置く必要性を痛感していました。そこで、1791年にマレー半島西岸にある、ペナン島を借り受けます。

この時、オランダはナポレオン戦争に巻き込まれ、フランスへ併合されます。これに伴い、オランダの東インドでの影響力は低下します。結果として、ナポレオン戦争を経た、1824年に英蘭協約が締結されます。これは最終的に、オランダが支配していた領域のうち、マレー半島に属する領域を、イギリスが支配する事になるものでした。

ここで引かれた国境線は、現在のマレーシアとインドネシアの国境と、殆ど同じものになります。

トーマス・ラッフルズによる入植

ペナン市議会/ペナン島
ペナン市議会/ペナン島

1818年にベンクーレンの副総督を務めていたのが、トーマス・スタンフォード・ビングレイ・ラッフルズ卿です。ラッフルズ卿は、イギリス東インド会社の事務員としてキャリアをスタートし、 1805年・23歳の時に、ペナンに新設された政府の副長官に昇進しました。この地域の歴史と文化を真剣に学び、マレー語にも精通していたラッフルズ卿は、1811年~16年までジャワ総督を務めます。

ラッフルズ卿は、中国貿易の支配権をオランダに譲るというイギリス本国の計画に猛反対しました。 1818年、ベンクーレンからインドに向かったラッフルズは、総督のヘイスティングス卿にマラッカ海峡の南端に英国の拠点を置く必要性を説きました。ヘイスティングス卿はラッフルズ卿に、オランダと敵対しない事を条件に、イギリス東インド会社のために拠点を確保する事を許可します。

ペナンに到着したラッフルズ卿は、オランダがリアウ州を占領し、ジョホール州は全て自分たちの勢力範囲だと主張している事を知ります。現地のイギリスの高官は、オランダと敵対したくないため、ラッフルズの計画を認めようとしませんでした。そこでラッフルズは、マレー語の文献を研究していた際に知った、シンガポール島へ訪れる事を決意します。高官はカルカッタからの指示をまつよう命令しましたが、これを黙殺し、民間貿易船でペナンを抜け出しました。

クラークキー/シンガポール
クラークキー/シンガポール

1819年1月28日、ラッフルズはシンガポール側の河口近くに訪れます。翌日上陸し、テメンゴン(マレー貴族の称号で、警察・軍の総督)であるAbdul Rahman bin Tun Daeng Abdul Hamidと会います。Abdul Rahmanは、フセイン・シャーの承諾を得て、イギリス東インド会社がこの島に商館を設置する事を仮承認しました。

ラッフルズは、港が守られていて、飲み水が豊富、オランダ人がいないこの島に注目します。そして、直ちに軍隊を展開し、シンガポール側の北東側を整地し、テントを張って、英国旗を掲揚しました。

ラッフルズはフセインを、ジョホールの正当な国王と認めます。2月6日、イギリス東インド会社は交易所を設立する権利を確認して、フセインには5000スペインドル、テメンゴンには3000スペインドルを毎年支払う条約に調印します。(当時この地域の共通通貨は、スペインドルでした)

ラッフルズはその後、土地の開拓と簡単な要塞の建設、そしてこの地での貿易に関税がかからないことを通過する船に知らせるよう指示し、ベンクーレンに戻ります。

ラッフルズの新しい事業に対する反応は様々でした。イギリス東インド会社の役人は、ラッフルズの行動によってオランダとの交渉が混乱する事を恐れていました。オランダはシンガポールを自らの勢力圏であると認識しており、著しく挑発的な行為であったためです。

しかしオランダは、シンガポールへ軍を差し向けることをしませんでした。これは現地のイギリスの高官がオランダに対し、この計画はカルカッタのイギリス政府から認められたものではないと断言したためです。一方カルカッタでは、商業界と「カルカッタ・ジャーナル」がこのニュースを歓迎し、この事業に対する政府の全面的な支援を求めます。

しかし現地のイギリスの高官の発言は、結局反故にされる事となります。ヘイスティングス卿は、シンガポールのために兵力と資金を提供するように命じます。イギリス外務大臣のキャッスルレーグは、マラッカ海峡を完全にオランダに掌握させないために、シンガポールの問題をオランダとの交渉事項に追加させ、和解のための時間を稼ぎました。

パラワンビーチ/セントーサ島
パラワンビーチ/セントーサ島

このシンガポールでの一連の動きを商機とみたマラッカの商人たちは、即座にシンガポールに集結しました。シンガポールの自由貿易政策の噂はこの海域一帯に広がり、6週間以内に100隻以上のインドネシア船が港に停泊し、シャムやヨーロッパの船舶も停泊するようになります。5月下旬にラッフルズがシンガポールに戻ると、居留地には、マレー人、中国人、ブギス人、アラブ人、インド人、ヨーロッパ人など、5000人近くにまで増えていました。

4週間の滞在中、ラッフルズはシンガポールの計画を立て、フセインとテメンゴンとの間で居留地の教会を定める協定に再び署名します。ラッフルズは友人への手紙で、「東洋で最も重要な拠点であり、海軍の優位性と商業的利益に関する限り、大陸全体の領土よりもはるかに高い価値がある」とシンガポールを評していました。

初期のシンガポールの発展

サンテックシティ/シンガポール
サンテックシティ/シンガポール

シンガポールが短期間で成功を収めたのは、インド・中国貿易の影響も大きいですが、それ以上に重要だったのは、リアウ等の周辺の港湾都市から、東インド諸島の中継貿易拠点の座を奪い取った事です。

自由貿易港の知らせは、貿易商だけではなく、定住者も呼び寄せる事になります。ペナン、マラッカ、リアウ、スマトラからマレー人が集まりました。フセイン王の従者数百人が船でリアウから来訪し、この新たな国王はシンガポールを本拠地とすべく、新たな宮殿を建設します。

リアウにおけるオランダの勢力拡大も、彼らと敵対する数百人のブギス商人と、その家族のシンガポールへの移住に拍車を掛けました。

シンガポールは、商人、鉱山労働者、ガンビア農民として何世代にもわたってこの地域に住んでいた南洋系中国人にとっても魅力的な場所でした。彼らはペナン、マラッカ、リアウ、マニラ、バンコク、バタビアから、関税や規制から逃れるために、富を求めてやってきました。その多くがマレー人女性と結婚し、その子供達はババ・ニョニャと呼ばれました。

インド人の人口は少なく、兵士や商人等で構成されました。ブルネイやマニラからきた少数のアルメニア商人や、スマトラから来たアラブの有力なファミリーも、この入植地に魅了されました。シンガポールの初期のヨーロッパ人のほとんどは、イギリス東インド会社の役人か、商船の船長を引退した者たちでした。

ラッフルズはシンガポールが、イギリス東インド会社の経済的負債とならないよう、わずかな予算で開拓を管理するよう任せます。貿易関税を課す事も、土地の所有権を売って収入を得る事もできないため、賭博が合法化され、アヘンやアラックと呼ばれたアルコール飲料を販売が許可されました。アヘンや蒸留酒の販売、賭博場の経営独占権を競売にかける、「タックスファーミング」と呼ばれる手法で、これらの収入は公共事業に充てられました。

また、広々とした港の治安維持は、最も大きな課題でした。特に、マラッカからやってきたマレー人や中国人たちと、新国王やテメンゴンに仕える荒くれ者たちとの間には、絶えず摩擦が起きていました。やがて商人たちは、警備のために夜警を雇うようになります。

シンガポール金融街
シンガポール金融街

1822年10月、ラッフルズはベンクーレンからシンガポールに戻ると、すぐに新市街の建設計画を立て始めます。海岸沿いの長さ5キロメートル、深さ1キロメートルの区域を、政府と商業地区としました。丘を切り開いて近くの沼を埋め、その土でつくられたこの商業地区の中心地は、現在ではラッフルズプレイスと呼ばれており、シンガポール金融街の中心地点となっています。

ラッフルズプレイスはが目指したのは、秩序正しく科学的に整備された街であり、彼はシンガポールがいつの日か、大規模で重要性の高い街になると考えていました。ラッフルズの計画では、商業地区はレンガ造りで瓦屋根、日よけ・雨よけのためにそれぞれ2メートルの屋根付き通路を設ける事になっていました。また、造船所、市場、教会、劇場、警察署、植物園などのスペースも確保されました。ラッフルズは、このときガバメント・ヒルに自己用の邸宅を建設しています。

チャイナタウン/シンガポール
チャイナタウン/シンガポール

新しい計画では、各移民グループに居住地が割り振られました。最も成長の早い中国人派、商業地区に隣接するシンガポール側の西側一帯を与えられ、チャイナタウンはさらに様々な方言のグループに分けらました。テメンゴンとその従者たちは、商業地区の西側数キロメートルに移動させられ、主にこの地区での彼らの影響力を抑制することが目的でした。各集団のリーダーにはより広い土地が割り当てられ、裕福なアジア人とヨーロッパ人は、官舎に隣接した住宅地に一緒に住むことが奨励されました。

法規範が無い中で、ラッフルズは1823年初めに一連の行政規則を発布します。最初の規則では、土地は公売で永代借地とすることと、登記することが義務づけられました。2つめは、シンガポールが自由港であることを再確認し、商人たちに好評を博したことです。ラッフルズは離任の別れの挨拶の中で、「シンガポールはこれからもずっと自由港であり続け、貿易や産業に対して将来の発展と繁栄を妨げるような税金を設けることは無い」と断言しました。第3の規則は、英国のコモンロー(普通法)を標準とするが、マレー人に関わる宗教・結婚・相続の問題についてはイスラム法を使用することとしました。

ラッフルズは、当時としては画期的な行政官でした。彼は犯罪の予防と、犯罪の単なる処罰ではない更生を信条としました。犯罪者によって傷つけられた人々への賠償金の支払いは、刑罰と同じくらい重要であると考えられていました。また、殺人だけを死刑とし、囚人を有用な移住者とするために、様々な労働や訓練のプログラムを実施しました。ラッフルズはすべての賭博場を閉鎖し、酒とアヘンの販売には重税を課しました。1823年には完全な奴隷制を廃止しましたが、移民が渡航費のために何年も過酷な労働を強いられた、借金での束縛を根絶することはできませんでした。

ラッフルズは、国王とテメンゴンが権力を持ちすぎており、アヘン、酒、賭博の収益の三分の一を受け取り、更には停泊するアジア人の船長に賄賂を要求している事を懸念していました。しかし国王とテメンゴンは、シンガポールは歴史上マレー半島を統治していた、シュリーヴィジャヤ王国・マラッカ王国・ジョホール王国と同じぐらい繁栄した港湾都市であると認識していました。

彼らは島の支配者として、その権力と収益の分配を受ける権利があると考えていました。1823年6月、ラッフルズは国王とテメンゴンを説得し、港湾税とその他の税収の分配権を放棄させ、その代わりにそれぞれ毎月1500スペインドル、800スペインドルを支給することとしました。オランダは依然として、イギリスのシンガポール進出に異議を唱えていたために、ラッフルズはこの問題を蒸し返さないように注意していました。

独立宣言記念館/マラッカ
独立宣言記念館/マラッカ

しかし、1824年3月17日、東インド諸島を二つの勢力圏に分割する、英蘭条約が締結されます。マラッカ海峡の北側をイギリスが、南側はオランダが派遣を握るというものです。結果、オランダはイギリスのシンガポールの領有権を認め、マラッカを放棄することとなります。代わりに、オランダはイギリスが支配していたベンクーレンを獲得することになります。

8月3日、シンガポールの領有権を確保したイギリスは、国王とテメンゴンと新たな条約を交渉し、シンガポールと近隣の島々をイギリス東インド会社に割譲し、その対価は現金で支払う事となった。この条約により、マレー人の首長は海賊の抑制に協力する事も同意したが、この問題はさらに数十年間解決されることはなかった。

カジノ/セントーサ島
カジノ/セントーサ島

1823年10月、ラッフルズはイギリスへ帰国し、これ以降シンガポールへ戻る事はありませんでした。シンガポールの理事官には、スコットランド人のジョン・クローファードが赴任します。効率的で質素な行政官として、この後3年間シンガポールを力強く発展させました。クローファードは、引き続き奴隷制と海賊とは戦い続けましたが、賭博場の再開は認め、課税し、その収入を道路の拡張、橋の建設などの市民事業に使いました。

しかしラッフルズの夢であった、入植者のための高等教育については、支援する事ができませんでした。ラッフルズは最後の公職として、シンガポールの教育機関の設立のために2000シンガポールドルを寄付しました。この教育機関は、アジアの教師や公務員の訓練の場であり、ラッフルズ自身と同様に、ヨーロッパの役人がこの地域の豊かな文化遺産を理解できる場所として構想されたものでした。ラッフルズは、この施設がアジア諸国の支配者や酋長の子息たちを惹きつけることを期待していました。

しかし、クローファードは、カルカッタのイギリス東インド会社に、初等教育を支援する事が望ましいと進言しました。いずれにせよ、全てのレベルの教育は、長い間軽視される事となります。

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